(ブログ連載小説)幻のドーナツ #5

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5.やっぱりかつ丼、これが夢だった
「さて、このままじゃ取り調べもできないし、取りあえずかつ丼食うか」
「いりませんよ。どうせ自腹なんでしょ」
 被疑者はつれない。
「いや、おれがおごる。な、かつ丼食べよう」
 大蔵にとってかつ丼は夢だったのだ。簡単に譲るわけにいかない。
「はあ、じゃあいただきます」
「よし。相坊、かつ丼ふたつ注文してくれ。あ、お前も食べる?」
「じゃあ、カレーうどんいいっすか」
「いいよ。でもシャツに汁が飛ぶぞ」
「前掛けします」
「お前そんなの用意してんの?」
カレーうどん好きなんで」
「日本人かインド人かハッキリしろよな。いや、なんでもない。じゃあ注文頼む」
 かつ丼がきて、大蔵がお金をはらった。
 手錠が大蔵と容疑者の腕をつないでいるから食べづらい。大蔵は右手で容疑者の左手に手錠をかけた。容疑者は右手が自由だ。口と手を使って割り箸をわって食べ始めた。大蔵は容疑者のとなりにすわっているけど、右手が手錠で容疑者につながっているから、動かしづらい。警部の手の動きで左手がひっぱられるにまかせてくれているけれど、じゃまだし、重い。こんなはずじゃなかったのに。
 相坊のカレーうどんの匂いが取調室に充満している。もう食べ終わって、満足顔で額の汗をハンカチで拭っている。
「相坊、給湯室行ってスプーン取ってきてくれ」
「ああ、はいはい。世話が焼けますね」
 いつもはおれがお前の世話を焼いてんだよと、大蔵は内心毒づいた。
 スプーンがきて、自由な左手でかつ丼を食べた。涙が出るほどうまかった。食後のお茶をすする。
「あっ、忘れてた。ドーナッツ。相坊、デスクから虎の子のドーナツ取ってきてくれ、食後のデザートにしよう」
「いいですね」
 取調室を出た相坊はすぐにもどってきた。
「大蔵さん、これ。やられましたよ」
 幻のドーナツの紙袋はぺちゃんこにつぶされ、上に一枚のメモ用紙がのっている。
『おいしくいただきました 刑事課一同』
「ううっ、ぐっ、ぐぅ」
 大蔵は言葉にならない原始的なうめき声を発し、絶望した。はるか昔、人類がアフリカのサバンナへ進出しなければならない状況に追い込まれたときも、かくありやという絶望だった。
「大蔵さん、泣かないでください」
「うっ、うう」
「え?おれのせい?」
 大蔵はうらめしそうに被疑者の男を睨んでいる。
「やつあたりはやめてください。大蔵さんが食べられないタイミングでしか買うことができないドーナツなんですよ。だから幻のドーナツなんです。運命だと思ってあきらめてください」
 がっくりうなだれてしまう。
「もういい、今日は帰る」
「被疑者はどうするんですか」
「なにが」
「被疑者の身柄ですよ」
「今日は留置場だよ。あたりまえだろ、逮捕したんだから」
「大蔵さんも一緒に?」
「なぜおれまで被疑者扱いする」
「でも、手錠はずれなければ一緒に留置場に泊まらないと」
 右手をあげ、手首にはめられた手錠をしげしげと見下ろす。
「うーん、うちくる?」
「えー。まずいんじゃないですか」
「じゃあ、まだ逮捕してないってことにするのは?事故で偶然手錠がはまっちゃって、しかたなしにってことでどうかな。明日になれば手錠切ってもらえるんだし」
「はあ」
 容疑者の顔をうかがう。
「逮捕してないってことになるなら、まあいいけど」
「決まりだ。じゃあ、送ってくれ」
「世話の焼ける」
 相坊に車で家まで送ってもらう。

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