(ブログ連載小説)幻のドーナツ #6

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6.奥さん本当にいたんですね
「いやー、大蔵さんのお宅にお邪魔するのははじめてです。奥さんにもとうとうお会いできるんですね」
「いや、相坊はここで帰ってくれ。駐車スペースがないんだ。この道は駐車禁止だし」
「そんなー」
 大蔵はメンドウになると思って、お前を妻に会わせたくはないとは言わなかった。
「はいってくれ、ただいまー」
 発砲音、大蔵は身をかがめる。
「おめでとう!はじめての犯人逮捕!いえーい」
 大蔵の妻が廊下の一番手前の部屋から飛び出してきて大蔵の首に抱きついた。勢いで玄関ドアに背中から激突し、妻はおでこをしたたかに打った。クラッカーの中身がごちゃごちゃと腕の当たりにたれさがっている。
「いったーい。そんなことより、いまのお気持ちは?」
 こぶしを大蔵の口元に押しつけてくる。
「複雑な心境なんだよ」
「あらま」
 妻が離れ、玄関の板の間に着地した。
「で、この方は部下?」
「いや、それが」
 右手を差し上げる。手錠がジャラジャラ。被疑者の左手がくっついてくる。
「なにこれ、なんていうプレイ?」
「これはプレイじゃないんだ」
「じゃ、そんなことはいいや。とりあえず一枚」
 大蔵と被疑者はケータイで撮影される。
「今度は手をつないで」
「わるいな、ちょっとつきあってくれ」
「はあ」
 ふたりは手をつなぐ。
「いいね。今度は顔だけ向けてお互いに見つめあって」
「こ、こう?」
「ああ、んはー。こりゃたまらんわ」
 じゃあ、今度はといって、ポーズをつけられ、向き合った状態でつないだ手を体の前にもってきて見つめあう。
「ああ、もうやっちゃってよ。ぶちゅっとやっちゃって」
「ありがとう。もうこれで十分だから」
 大蔵はケータイをパシャパシャいわせている妻の腰を引き寄せて、軽く口づける。
「ただいま」
「あら、わたしったらまだこんな玄関で。失礼しました。さ、どうぞあがってください」
 やっとスリッパがでてきた。そのまま出てきたドアをはいって姿を消してしまった。
「すまない。驚いただろ。さっきのがおれの妻なんだ」
「ま、まあ。本当にキスさせられるんじゃないかとあせったよ」
「病気なんだな」
「はあ」
「まあ、あがってくれ」
 ふたりで大蔵の妻がはいっていったドアを通る。リビングダイニングだ。奥はカウンターキッチンになっている。リビングのソファに並んですわる。
「奥さんは仕事なにしてるんだ?」
「マンガ家。それもちょっとあれな」
「あれ」
「そう、さっきみたいなあれ」
「ああ。女性向けの」
「そうだな。男が見て悪いことはないが、少ないだろうな」
「なんというか、かわいらしい奥さんだね」
「おれには彼女しかいないってくらい最高の妻だと思っているけどね」
「すごいもんだ、そこまでとは」
「マンガ家ってのは、普段ひとりでずっと描いてるもんだろ。おれが家をあけるといっても、そのほうが都合がいいっていうくらいなんだ」
「ああ、刑事の仕事は不規則なんだね」
「そう、で、ちょっと手が空いてかまってほしいときだけ近づいてくるわけ。猫みたいなものかな」
「はあ」
「それに、おれのよき理解者であり、応援団長なんだな」
 またケータイのパシャッという音が聞こえた。
「はい、準備オッケー。こっちきて」
 テーブルにはオードブルと、シャンパンが冷やしてあって、準備オッケーだった。
「すごいね」
「だって、お祝いでしょ?」
「いや、それが。まあいいや。ゆっくり話そう。アルコールは大丈夫?それじゃ、乾杯だ」
「チンチーン」
「それはやめてくれ」
「なんで?いいじゃない」
「はいはい。レマン湖とか大好きなんだよな」
「フランス語なんだからいいじゃない」
「とにかく飲もう」
 シャンパンは冷やされていてスッキリシュワシュワ、爽やかな甘みが、取調室の壁が倒れ、周囲はアルプスの高原の花畑だったときのようだ。われながらなにを言っているかわからない。
 やっと落ち着いたから、大蔵は妻に今日あったことを話した。
「お風呂は?沸いてるけど」
「今日はいいよ、こんなだし」
 右手を上げて手錠につながれている状態を見せる。
「いいじゃない、男同士なんだし。じゅるり」
 出てもいないよだれを手の甲で拭っている。手がつながっているんだからシャツが脱げないと言って、どうにか妻の欲望をとどめることができた。
「わるいけど、今日はリビングのソファで寝てくれる?」
「いいのいいの、仕事場で仕事するから。今日ははかどるわ」
 なんだかとってもいい気がしないけれど、スルーしてシャンパンのボトルが終わったのを機に寝ることにした。

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