(ブログ連載小説)幻のドーナツ #8

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8.そんなことじゃないかと思ってたでしょ?
 朝食のあと、相坊が門のところまで車で迎えにきて、警察署へ出勤だ。車内では、パソコン教室の裏付けと、被疑者宅のカレンダーで予定をチェックし、アリバイの確認もするように指示した。
「おはようございます」
「よ、御両人」
 サクラさんまで妻の病気がうつったかと思うようなことを言う。
「サクラさん、今日は相坊と組んで外回りお願いします。指示は相坊に出しておきました」
「大蔵さんじゃないんですか」
「おれは取調室で留守番してる」
 右手をあげて手錠を示す。
「そういえば、装備課の人はまだ糸ノコもってきてくれてないか?」
「それじゃないですか」
 相坊が大蔵のデスクをアゴで示す。デスクの上にホームセンターの袋がのっている。中身を取り出すと、糸ノコだった。
「おお。それじゃ、相坊って」
 サクラさんに連行されていくところだった。せっかちなんだ、サクラさんは。
「米田さん、お願いできます?」
「まあ、お茶でも飲んだら?」
 ニッコリして、米田さんはお茶をすする。

 被疑者と並んで取調室でお茶をすする。向かい側に米田さんがいると、自分が取り調べを受けているような気分になってくる。
「そろそろやってみる?」
 ちょっと楽しそうに米田さんが身をのりだしてくる。手が糸ノコに伸びて、ハンドル部分をつかむ。顔の横にかかげる。怖い。
「え、えーと。米田さん糸ノコって使ったことあるんですか?」
「あるよ」
 それだけ?もっと、なにか付け加えることは?心配だ。
「日曜大工が趣味とか」
「中学のときかな、技術・家庭科っていう科目があってねえ。いまでもあるのかねえ。授業で糸ノコを使う実習があったんだよねえ。けっこう指切っちゃったりする不器用な人がいるんだよねえ」
「米田さんは大丈夫だったんですよね」
「ぼく?ぼくはどうだったかなあ」
 指を調べている。そんな最近のことじゃないですよね。
「指を切ったのはぼくじゃないと思うけど、もう昔のことだからねえ。よく覚えてないかなあ」
「使い方は?」
「大丈夫、普通のノコギリを一緒だよ」
 大蔵の手首の手錠をデスクに押さえつける。
「え、え、ちょ、待ってください、待ってください」
「どうかした?」
「いや、手錠の内側から外側に向かって切ってもらっていいですか」
「ちょっとメンドウだね。刃を外さないといけない」
「どうかお願いします」
 米田さんを拝み倒して糸ノコの刃を手錠に通してもらった。ふう。手錠の蝶番のすこし手前を切り離すことにして、やっと普段の慎重さというか、やる気のなさというか、そんなものを発揮してノンビリ糸ノコを引きはじめる。シューコシューコと糸ノコが上下に移動し、刃がこすった横にアルミの粉が積もる。シューコシューコ。催眠術にかかるような気分になって、眠くなってと思ったら、さきに米田さんの頭が倒れかかってきた。
「米田さん。お願いします。眠らないで、最後まで手錠を切ってください」
「ああ、そう。そうだったね。うん、まかせておけば大丈夫だ。こうね、糸ノコを引いていると、このリズムがだんだん心地よくなってきてねえ。なんだか意識が」
「米田さん」
「ん?遠くなってくるんだねえ」
 あと少しがなかなか切れなくてじれったい。ふっと息を吹きかけてアルミの粉を飛ばす。いよいよだ。最後はスパッと切れて、糸ノコのフレームが大蔵の腕に軽くぶつかった。
「おお!やった」
 手錠を手首から完全に離して、手首をこする。手錠で絞められていたあとがついている。
 あの、忘れてない?といわれて、我に返り、大蔵は米田さんからバトンタッチで糸ノコをあずかり、同じように手錠の内側から切り離しにかかる。
「こんな感じですか?」
「うん、あまり押しつけると刃がダメになるから、ちょっとこするくらいの加減で、何回も何回も引くんだねえ。あせったらダメだよ」
 アドバイスになるほどと納得して、シューコシューコ。気が遠くなりながらも手錠を切り離した。大蔵と被疑者はお互いに固い握手を交わした。
「いやー、ヒドイ目にあった」
「でも、疑いが晴れたわけじゃないよ」
「でも、調べてくれてるんだろ?大丈夫。疑いは晴れるよ」
 バン
 取調室のドアが開いて、コツコツ、サクラさんが相坊を引き連れてはいってくる。狭い取調室に五人もいて、圧迫感が尋常ではない。
「パソコン教室に行って、被疑者が被害者の講師をしていたことがわかった。被害者はたびたび自分のノートパソコンを持ち込んで熱心に質問していたらしいことも。ちょっとずうずうしいことで有名だったらしい。それから、カレンダーにはハローワークの受給説明会と書いてあった。ハローワークにまわって聞いたところ、事件当時は受給説明会の真っ最中。被疑者が出席していたことは、顔写真で確認したから間違いないそうだ。気が抜けるほどあっさりシロだとわかったぞ」
「がーん」
 大蔵は頭を抱え込んだ。やっと被疑者確保までたどり着いたと思ったのに、誤認逮捕だったのだ。
「申し訳ありません。誤認逮捕でした」
 大蔵は元被疑者に深々と頭をさげた。米田さん、サクラさんも大蔵にならって頭をさげている。相坊は出遅れて、あわてて頭をさげる。
「やだな、逮捕してないことにしたじゃないですか。いいんですよ、いろいろよくしてもらったし」
「では、自宅まで送ります」
「うん、よろしく、大蔵さん」

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