(ブログ読切短編小説)スティーブンキングの主題による短編

「スティーブンキングの主題による短編」

 仕事で疲れて帰宅すると、お母さんもアリスも留守らしく、家の中は静かだった。リビングでバッグを放りだし、テレビのスウィッチをいれる。夕方のテレビは、都会のレストランやショップを紹介する番組を映す。行ったこともない都会のことなんか知ったことではない、ほかに知らせるべきことがあるんじゃないか。テレビなんて静寂消去装置でしかないとわかっていても、ついケチをつけたくなる。
 ジャケットをソファの背もたれにかける。
 キッチンでヤカンを火にかけ、コーヒーをいれる道具をセットする。コーヒーはカフェインがはいっていて、目を覚ましたり意識を興奮させたりする効果がある。でも、おれは気分をゆったりリラックスさせる効果もあると思っている。相反することを言うようだけれど。
 コーヒーをいれて、歩きながら口をつける。あちっ。でも、脳に効く。ほんのちょっと啜っただけなのに、脳がカフェインを吸い上げる感覚がある。ちりちりとした刺激があるのだ。脳に感覚受容神経がないことは知っているけれど、そう感じるのは問題ないだろ?幽霊が見えるのと同じことだ。見えたっていい。ほんとうに物質として幽霊が存在しなくてもな。
 もう一口啜ってから、カップをリビングのテーブルに置き、ソファに寝転ぶ。自分の家でもないのに、完全にリラックスできる。おれはけっこうどこでも順応して、すぐにリラックスして自分の家のように過ごすことができるのだ。ずうずうしいって言うな。
 テレビは全国のニュースに話題がかわった。精神病院の入院患者が暴動を起こし、ふたりは鎮圧されたが、ひとり取り逃がして行方不明だという。病院のスタッフがふたり切りつけられ病院に運ばれ、死亡が確認された。嫌なニュースだ。こんな話を聞かされたくて静寂消去装置を置いているわけではない。リモコンでテレビを消した。
 起き上がってコーヒーを飲む。ふう。背もたれに体をあずけ、上を向いた顔で目を閉じる。細胞がじわじわとなにやら活動している。疲れが抜けるなんて間抜けな表現は避けたい。
 お母さんはどこへいったんだろう。近所の公園にアリスを遊ばせにいっただけにしては遅い気がする。そういえば、玄関を入ったとき、なにか変な気がしたんだった。なにが変だったのか。
 アリスはお母さんによくなついている。なぜだろう。ミリーがよく連れてきていたからか。それだけなら、うちの実家にだって何度も行っている。お袋や親父にだってもう少しなついてもいい気がするけど。ほとんど知らない老人という扱いだ。もう少しうちとけてくれれば実家で暮らすこともできるんだけど。離婚した妻の実家にやっかいになるのは、あまり褒められたことではない。
 お母さんはひとりで暮らすよりずっといいと言ってくれているけれど。たぶん、それは本心だろうけど。他人と暮らせばやっぱり気に入らないこともある。せっかく離婚という選択をしたのだから、大きな障害を乗り越えた先のご褒美として快適に暮らせるともっと幸せなはずだ。
 階段を降りる足音。
 姿勢をもどしてコーヒーを一口。この足音は、お母さんやアリスのものではない。もったいぶった、異様に慎重な足音、聞かれることを意識した足音だ。
「おかえりなさい」
 ミリーがドアを開けた。
 落ち着け。不安を悟られてはいけない。
「ミリーこそ。突然だな。帰ってくるって聞いてなかったけど」
「そう。突然だったの。秘密にしていたから」
「驚いたよ」
「成功ね」
 喉が上下する。つばを飲み込んだのだ。こんなに大げさに喉を上下させるものだとは知らなかった。なにげなさを装いたいというのに。
 ミリーがとなりにすわる。ミリーの匂いだ。そうか、玄関をはいったときミリーの匂いをかすかに感じたのか。なにか変な気がした正体はそれだ。くそっ、なぜもっと早く気づかなかった。
「なに飲んげるの?」
「コーヒーだよ。いると思わなかったから、全部注いじゃったんだ」
「いいよ、別に。自分でいれるから」
 キッチンにまわり込んで、湯を沸かしにかかる。しまったばかりのコーヒーの道具をせっとする。実家だけあって手慣れたものだ。
「最近は早いの?」
「ん?ああ、帰りか。あのころは特別に遅くなっていただけさ。重要なプロジェクトが炎上していたからね。あれでも、おれは早くあがっていた方だよ。何日も家に帰れない人間だっていたくらいなんだ。でも、普段はこんなものだったろ。何度も話し合ったことだけど」
「終わったってこと?」
 キッチンとの境を越えてきて、またとなりに腰をおろした。
「そうだな。またあんなプロジェクトに放りこまれるのは御免蒙りたいね」
「ウソ!」
 大声を耳元で発するものだから、キーンと耳鳴りみたいなものがした。それに、まずいことになった。体をミリーに向ける。
「女と会ってたくせにっ!まだわたしをダマそうとするのっ?」
「ちがう。女となんて会ってない。仕事だったんだ」
「会社のあの、プログラマの女なんでしょ!異常にオシャレして胸の開いた服着て、フェロモンがプンプンでこっちまで酔っちゃうくらい。プログラマがあんな服着る必要なんてないでしょうがっ。男目当てに決まってるの!あなたはころっとダマされちゃって、疑うってことを知らないのっ。そのせいでわたしがどれだけ傷ついたかってことも、なにも知らないのっ」
 完全にスウィッチがはいってしまった。誇大妄想というか、被害妄想と言うのか、嫉妬心が異様に強くて、なにかというと女と会っていたんだと断定されてしまうのだ。職場にまで様子を見にきていたことは離婚の決心をする前から知っていた。
 離婚したあと自殺をはかったものだから精神科に入院していたはずなのだ。退院するなんて話は聞いていなかったのに、どういうことだ。
 まずい。ソファから立ち上がる。電話台の上で留守電の表示が点滅している。
 目が、狂った人間の目になって、普段とまったく表情がちがう。
 首に飛びかかってきた。カーペットに足が引っかかって、一緒に倒れ込む。
 狂った人間のバカ力と言うのは、恐ろしいものだ。こっちも本気を出さないと、首を絞められてそのまま殺されてしまう。腕を首から引きはがし、体をいれかえ、床に押さえこむ。
 南向きの窓に日が差していない。外の明るさは残照だ。こんな時間までお母さんとアリスがもどらないのはおかしい。まさか、ミリーのやつ。
「おい、さっきまで二階でなにしてた」
「男を連れ込んだとでも疑ってるの?残念でした、わたしはそんなふしだらな女じゃありません。あのプログラマの淫乱と一緒にしないでくれる」
「いや、そうは思わなかった。おれは疑ったことなんてなかっただろ」
「わたしがなにをしようと関係ないっていうの」
「いまはな。でも、昔はミリーのことを信じてたんだ」
 どこか噛みついてやろうと口をあけて首を振っている。
「なあ、お母さんとアリスは?なにか知らないか」
「二階で寝てる。まだ寝かせておいて」
 全身の毛が逆立つのがわかった。気持ち悪い。
「おい、なにもしてないだろうな」
「なにもって、なにをするっていうの、昼寝してるのに。起こしたらかわいそうでしょ」
「本当か?本当に昼寝してるだけなのか?ちゃんと起きるのか?」
「当り前でしょ。起きなかったら死んでるじゃない」
「アリース!お母さん!」
 物音ひとつしない。いや、いくら狂ってるっていっても、実の母親と娘を手にかけるってことは、ないはず。
「もう、起きちゃったじゃない。今日はいっぱい遊んだから疲れてたのに。かわいそう」
 ミリーは嫉妬がピークの頃、四歳の娘にまで威嚇をしていた。パパはママだけのもの、体が大人になってもパパを誘惑したら許さないからね、娘でも殺すからねと。そのときは怯え切っていたけれど、そんなことはすぐに忘れてしまったのか、アリスはママが大好きな普通の女の子だった。
「ねえ、もう放して。手が痛い。もう暴れないから」
 目に正気がもどっている。娘の話をしたからか。慎重に力を抜いて、手首を握った手を離す。ゆっくり馬乗りから脇にずれ、立ち上がった。
「いっけない」
 床から起き上がって、ミリーはキッチンに駆け込んだ。
「ヤカンが空焚きになるところだった」
 ヤカンに水道の水を汲もうとして、水蒸気を勢いよく立ちのぼらせた。おれは留守電のボタンを押す。電子音がしてメッセージを再生する。一件目。
ギンズバーグ精神病院です。娘さんの件でお話ししたいことが」
 悠長にメッセージを聞いている場合ではない。さっきニュースで報じていたのはミリーのことではないか。病院を抜け出すときに職員をふたり殺したと言っていた。
「おーい、アリース。アリース」
 リビングを抜け階段をあがる。応答は得られない。娘の使っている部屋。心の準備をしてドアを開ける。なにごともない。ほっとするわけにいかない。となりのお母さんの寝室がのこっている。
 アリスの部屋を出ると、ミリーがほとんど影となって廊下に立ち尽くしていた。だらりとさげた手に包丁を握っている。二階の廊下の窓から弱い光が届いて、包丁の刃が金属的に反射する。
「起こしたらかわいそうっていったでしょ!ふたりは疲れてるのっ」
 包丁を胸の高さにかまえる。危険だ。包丁で刺されたくはないが、窓から脱出する余裕はなさそうだ。廊下は狭い。あのするどい切っ先をかわすのもむづかしい。廊下に落とし穴でもあればよかったけど。向かいの部屋に飛び込むことはできそうだ。でも、ミリーを締め出すのはどうだ。はっと飛び込んでバンとドアを閉める、いけるか。しまった、距離を詰められた。考えている場合じゃない。
 はっと、で、バン。
 とはいかなかった。ドアが閉まる前にミリーがドアに体当たりして、そのまま隙間に体を差し込み、包丁を振りまわしたのだ。手を離すしかない。おれが使わせてもらっている部屋。くそっ、ゴルフでもやっていればよかった。ゴルフクラブどころか、手頃な大きさのものさえない。ハードカバーであっても、本で包丁に対峙するのは勇気がいるし、ベッドをもちあげることはできないし、パソコン、あ、キーボード、いや、頼りない。握りづらいし。うおっ。
 本気だ。本気で殺そうとしている。おれがかわさなければ、胸に包丁が突き立っていたところだ。でも、チャンス。位置関係が逆転した。
 ドアを飛び出し、階段を駆け下りる。踊り場から階段をおりようとして、つま先がつかえた。頭から階段を落ちるかというところで腕を伸ばして手すりに抱きついた。脇が痛い。リビングを抜けてキッチンへ。
 包丁に対抗するもの。こっちも包丁では、おれがミリーを殺してしまうことになる。なにか別なもの。殴り倒せるけど、殺すまではいかないような。オタマ。うん。握りやすい。すこし軽すぎるけど、リーチは包丁より長い。眉間に叩き込めばきっと気を失わせるくらいできるだろう。リビングでミリーと対した。あれ?あぶねっ。
 作戦失敗だ。ミリーが包丁をもった腕を振りまわしたら、オタマのリーチなんてまったくもって長くなんてなかった。くそー、小さめのフライパンがベターだったか。フライパンなら包丁の攻撃を受けることもできただろう。
 ミリーが腕を振りまわしすぎて体勢を崩した。今のうちに獲物をもちかえる。キッチンへ駆けこもうとして、コケた。ミリーが床に膝をついた姿勢でカーペットの端を握っていた。おれが踏んでいたカーペットを引いてころばせたということだ。マンガみたいな。ミリーの包丁が迫ってくる。起き上がってキッチンへ。獲物、獲物。フライパンはどこだ。くそっ、手にとりやすいところに出しておいてくれればいいものを。どこかの戸を開けないと取り出せないらしい。普段コーヒーをいれるくらいしかしたことないからわからない。元妻の実家ということで遠慮があったのだ。
 ヤカン。
 投げつける。叩き落とそうとして本体とフタが分離し、お湯が撥ね散った。湯気と、ミリーの悲鳴。包丁は手から落としたらしい。床に倒れ込んで苦しんでいる。
 えーと、鍋か。戸をかたっぱしから開ける覚悟で開けはじめたら、すぐに見つかった。水を汲んでミリーにぶっかける。二度、三度。
 これ以上は水ではどうにもならない。電話に取りついて救急車を呼ぶ。その間もミリーから目を離さない。話がついて、五分で救急車が到着するという。
「ミリー、救急車がくるからな。五分だ、すぐだからな」
 包丁は拾ってテーブルに置き、ソファにかける。落ち着いている場合ではないとばかりに、ケータイががなりはじめた。今度はなんだ。
「パパ?いまどこ?留守電聞いてくれた?」
「アリス。生きてたのか」
 たぶん腰が抜けている。ソファに体を預けているからわからないけど。
「お腹すきすぎてカエルだってパクッと食べちゃうくらいでも生きているというならね」
 ついこのあいだ言葉を話しはじめたと思ったら、もうこんな一端な口をきく。
「それで?留守電は?というか、ママは?」
「いや、留守電はまだ聞いてないというか、途中だった」
「なにやってるんだか。ケータイはつながらないし、嫌んなっちゃう」
 きっと電車に乗っていて着信音に気づかなかったんだな。
「今日はママの誕生日でしょう?ディナーをしましょって。ママは外出許可もらってグランマの家にくるんだって。だから、ママと一緒にきてってメッセージをいれておいたんだけど。ママはまだ?」
 ママはね、大やけどを負って床で苦しんでいるよ。外出許可をもらっていたのか。逃げ出してきたわけではなかった。なんでそんなこと思ったんだっけ。
「それで、アリスはどこにいるんだ?」
「映画館の近くのアイスクリーム屋さん。映画を観たの、プリキュア
 ああ、そのアニメが好きだからね。って、アイス食ってんじゃねえか。いや、まあいい。アリスはプリキュア観にいきたいっていってたっけ。グランマに連れて行ってもらいなって言ってしまったんだった。映画は面白かったかいなんて話しながら階段をあがり、お母さんの部屋にお邪魔する。もちろん、お母さんとアリスの惨殺体はなかった。かわりにクマのぬいぐるみと不気味な女の子の人形がベッドで昼寝をしていた。お母さんとアリスということらしい。
「ママはね、ディナーを一緒にできないみたいだよ」
 電話を切った。とんだ誕生日になってしまったな。担架に乗せられているミリー。

 ハッピバースデイ・ミリー。