ぶっ壊した日本語(「お人形の見る蝶の夢」の場合)

 日本語話者向けに日本語で小説を書いているわけです。小説の感想に読みやすかったというものがあったりします。どうなんでしょうねえと思うわけです。

 読みやすかったらサッと読んでしまいます。サッと忘れてしまうことでしょう。読んだことまで忘れてしまったりして。

 わたくしは、読んだ人になにか残してやろうとたくらんでいます。

 書きだしが有名な小説ってありますね。「いづれのおんときにか」みたいなのとか。「吾輩は猫である」なんて、そのままタイトルになっています。これ、読んだ人にというか、読んでいない人にまで残っています。

 ストーリーなんかでも。「占星術殺人事件」はトリックが残ります。御手洗と石岡くんのコンビでも残りますね。「オーデュボンの祈り」は設定が残ります。

 なかなかむづかしいのではないかと思います。凡才が普通に書いていたら、読んだ人になにも残りません。そこで、ぶっ壊れた日本語をぶち込んだらどうでしょうと。賞に応募する小説でやったら落とされそうですけれど。

 小説に合うようにぶっ壊さないといけないし、ぶっ壊した日本語がマッチしない小説もあるでしょう。すでにカクヨムで試みているわけですけれど。もしかしたら、文章が下手だからぶっ壊れていると思われているかもしれませんね。意識してやっています。

 「お人形の見る夢」は、短いからなのかタイトルがよいのか、レビューしてくれた人の影響なのか、わたくしの小説の中ではPVが多いのですけれど。ぶっ壊した日本語を投入しています。

廊下に出て、階段をあがり、踊り場にも絵が飾ってあって、ライオンと戦う男の人が描いてある、二階の廊下を進んで、わたしの部屋だよ、レッティの部屋へ入る。

 お人形の見る蝶の夢(九乃カナ) - カクヨム

 ひと段落一文で、レッティとわたしの動作、階段踊り場の描写、レッティのセリフをギュギュっと凝縮して、境界を壊して一文にしています。本来なら、よっつかいつつの文にわけるべきところです。間延びしてしまいますけれど。

 読んでみると、すぅーっとカメラが移動して踊り場の絵でいったん止まり、また動き出して、廊下を進んでいる映像を映しながらレッティの声だけ聞こえてドアが開き部屋の中、そんなイメージ。あまり違和感ない気もします。レッティはそよ風のように話しますから、移動途中に声だけそよっと聞こえるのも理にかなっているかと。

 このシーンが印象に残ったという感想をもらっているわけではありませんから、成功しているのかどうか怪しいところです。作者としては自画自賛しているのですけれど。