まずですね、説明がいるの思うのです。
現代アートや現代音楽というのがあります。いままでのアートや音楽を反省するわけです。アートとはなんぞや。音楽とはなんぞや。形がなくてもアートじゃん?コードなんて進行しなくても音楽だっしょ。
そういうのって小説でもあるのですかね。わたくし、小説のこと詳しくありませんから知りません。試しにやってみようという。
小説とはなんぞや。キャラなんてなくたって小説やないの?
知りませんけれど。
というところで、メモ。
キャラのいない小説。
ストーリーはほしいか。
セリフっぽくないところを鍵カッコつけてセリフにするとか。
はい、ストーリーはほしいかというのが。むづかしい。ストーリーって、誰かのストーリーでしょうねえ。その誰かがいなくてストーリーになるのか。いやはや。
では、ボツにした書きかけも。
秋、落葉広葉樹は紅葉し、山や町を賑わす。人間にとってはおいしい食材が豊富に手に入る季節。食欲をかきたてられもし、食欲を満たすことを可能ともする。
食事をするということは、体内にエネルギーを摂取することである。生物は代謝する。分子レベルで見れば、ミトコンドリアでATPを産生し細胞内で消費する。ATPを消費するとは、加水分解してエネルギーを得ているのだけれど、その取り出すエネルギーというのは、ATPと加水分解後の生成物とのエネルギー準位の差である。より安定な物質、あるいは構造になるということ。
人間は成長期、あるいは青年期、エネルギーを多く必要とし、歳を経るごとに必要量が減ってゆく。歳とともに摂取量を減らさなければ、蓄積されることとなり、メタボ。人生の悲哀となる。この時期、ひとりの人間にとって秋とも表現されることがある。(ボツ)
一年の季節が移り替わる様子を人生に例えることは頻繁に行われる。頻繁に行われると表現が定着し、陳腐化も起こったりして、人気がなくなってゆく。
言語感覚の鈍い人ほどいつまでも陳腐な表現を使いつづける。表現は感覚的なものであり、身体につながってゆくからである。気持ちの悪い表現は、身体的にも不快を生じさせる。敏感な人は気持ちが悪いと言って使わなくなっても、鈍感な人は平気で使いつづける。
ひとつづつと書く人にとって、「ひとつずつ」という文字列は気持ちが悪い。逆も同じかもしれない。「ひとつずつ」と書くくらいなら、ひとつひとつと書いた方がマシということになったりして。すると文字が長くなる。
(ここまでボツ)
ここまでボツとありますけれど、全体をボツにしました。エッセイか、作者が主役か、そんな文章になりかけているなあと感じたのです。
考え直しました。キャラのいない小説。ずっと風景描写だけの小説とか?でも、わたくし風景描写なんてほとんどしませんからねえ。せっかちだからノンビリ風景なんて気にしている場合ではないという書き方をいつもしています。
それで、風景になるまえから書きだして、最後にちらっと風景みたいのがあって終わる小説になりました。
セリフは、「ボイド宇宙不動産」の『おとめ座高校時代』のタイミングで。つまり、文の数をかぞえて、同じ文の数だけ地の文があって、同じ文の数だけセリフにしてということをやりました。全然セリフではないのに、セリフになっているという。わけわからなさが増しましたね。
さて、これ現代小説と呼ぶべきものになっているのでしょうか。小説になっているのでしょうか。別のなにかになっているかもしれません。よくわかりませんねえ。読んでくださった方の意見を聞きたいものです。