推敲は7回目まで修了しました。
いつになったら終わるのやら。
もう4月になってしまいました。
来週中には推敲を終わらせて、賞に応募したいものです。
小説って自由でいいんじゃないかって話をひとつ。
よく、人物が書けてないという批評をする人がいるみたいです。
なんでしょうね、人物って。
人物が書けてない小説は、ダメだということなんでしょう。
人物を書くつもりで書けてなければ、その批評はあたっているわけですが。
小説って、自由なものだから人物なんて書かないという小説だってありです。
人物が書けている小説が好きだ、でもこの小説では人物が書いてないから嫌いだというだけのことですね。上のような批評をする人は。
あなたの好みなんて知りませんよと書く方は思います。
人物を書くってどういうことでしょうか。
たぶん登場人物が内心に思っていることを書いてあるってことだと思います。ちがうかもしれません。
わたしは、登場人物が感じたことを書いてある小説はつまらないと思います。
まず、読むのがメンドクサイです。
登場人物がどう感じたかは、読者が想像して楽しんだ方がよいと思います。
道を歩いていたら、目の前に死体が落ちていました。
そのときの登場人物の驚きやら、気持ち悪さやら、不憫に思う気持ちやらを読まされても面白いと思いません。
その登場人物がなにを見るか、どこをどういう順番でどのくらい詳しく見るかを書けば、登場人物が感じるものを、ある程度読者に感じてもらえるはずです。
そこに登場人物の性格やらなにやらが表現されます。
遠くから見て近づかない、ケータイをだして警察に通報するとか。
ずっと近づいていって、顔を確認、死んでいることを確認、死因の見当をつけ、まわりに不審人物がいないかを確認、そのあと警察に通報するとか。
そんな風にかなりちがった人間として書き分けられます。
あるいは、ここは死体が転がっていたことがわかればいい場面だからといって、目を道路の先に転じたら道の真ん中に人が死んでいた、だけで済ますのだってありです。
人間が書けてないといけないとか先入観をもたずに、自由に小説を読みたいものです。