(ブログ連載小説)幻のドーナツ #1

目次へ

1.まあ、ゆっくり行きましょう。ドーナツでも食べてね
 大蔵は会計を済ませ、歩道の端で待機している相坊に近づいてゆく。大蔵はよろこびのあまり、頬がにやけるのを押さえられない。相坊は相坊で、興奮気味だ。
「大蔵さん、やりましたよ」
「ああ、とうとうやったよ。いっつもこの店売り切れだからな、もう一生買えないんじゃないかと思っていたよ。よかったなあ、たまたま近くを通りかかったついでにのぞいてみて。午前の休憩はドーナツにコーヒーだぞ。豪勢だな」
「ドーナツじゃないですよ、逮捕状です」
「ドーナツじゃないとはなんだ、これは幻のドーナツと評判のだな、逮捕状?」
「そうです。逮捕状とれたって、サクラさんから電話きましたよ。大蔵さん出ないってキレ気味でしたけど」
 大蔵は上着の内ポケットからケータイを出して確認する。うん、着信があったようだ。ドーナツに夢中で気づかなかったらしい。
 そうか、逮捕状がおりたか。長かった。大蔵は遠くを見つめる。街路樹が並んだ道路がずっと先までつづいている。大蔵のはじめての被疑者確保を祝福するように、空が青く輝いている。鳥が歌い、蝶が舞う。花が踊り、動物たちが駆けてくる。妄想が広がり過ぎた。
 鹿が怪訝そうにこちらを見ている。いや、相坊だった。
「どうしたんですか、早くもどりましょう」
「そうだな。食べながらでもいい?」
「子供ですか」

 刑事課にもどると、なんだかみんな集まっている。
 とうとう記録がとまるのかとか、誤認逮捕なんじゃないのとか、勝手なことをぼそぼそとつぶやいている。
 サクラさんがペーパーを渡してくれる。
「おお、これが神にさずかりし十戒
「逮捕状な」
「すばらしい。サクラさんありがとう。検事、裁判官、ありがとう。そして被疑者の方、ありがとう。世界のみんな、ありがとう」
「人類愛に目覚めちまったか」
「だって、ほら。ずっと変わった事件ばかりを担当してきたでしょう。とうとう回ってきた普通っぽい事件だったから、絶対逮捕と勝負をかけていたわけですよ。いやー、昇らない太陽はないって本当ですね」
「明けない夜はないな」
 サクラさんは、いつも以上に切れ味鋭く整った顔立ちをしている。
「じゃあ、行くか」
「どこ行くんですか、まずはよろこびとともに、この幻のドーナツを噛みしめませんか」
 ドーナツの袋をドヤ顔で掲げる。
「そんな暇はない。逮捕状の執行だ」
「まずは任意同行で連れてきてもらいましょうよ。で、証拠をつきつけて、お前がやったんだな?がくっ、となって。すみません、刑事さん。おれがやりました。と、こうですよ。そしたら、話してくれるな?って言って、被疑者はうなだれている。ポツポツと罪を告白して、最後に、わかった、じゃあお前を殺人の容疑で逮捕する、いいな?はい、とこうですよ。で、ドーナツでもどうだって勧めてやると泣き崩れるわけです」
「長い一人芝居だったな。じゃあ、任意同行をもとめて、応じなかったら逮捕状執行な。行くぞ」
 大蔵は肩をつかまれて連れていかれてしまう。ドーナツはデスクの上でお留守番だ。
「そうだ、拳銃は?もったほうがよくないですか?」
「いらない」

目次へ