(ブログ連載小説)幻のドーナツ #7

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7.ふたりベッドの中
 被疑者と並んでベッドにはいる。大蔵は天井を見つめる。
「はじめてなんだ」
「なにが!」
 被疑者がガバッと起き上がった。
「係長として事件を担当して被疑者を逮捕したの」
「なんだ。あー、ビックリした。って、ホントかよ。よく係長になれたな。係長って偉いんだろ」
「勉強して試験を受けたんだ。警察は試験を受けないと昇進できない。でも、勉強は得意だから。あと、上司の覚えがめでたくないといけない。ヒラの捜査員のときはそれなりに能力を示したつもりなんだ」
「へー。勉強はできるのに事件は解決できないんだな」
「ぼくに解決できないんだから誰にも解決できないって思うんだけど」
「難事件ばかり担当してたってことか」
「いいわけだけどね」
 難事件かどうかはわからないけれど、ヘンな事件ばかりではあったと、あれやこれやの事件を思い返す。
「きみが犯人で、ぼくを殺して逃げようと思うなら。ぼくはきみを恨んだりしないよ。とうとう自分で被疑者を逮捕したんだ。こんな最高の日に死ぬのも悪くないからね」
「さっき逮捕してないことにするっていっただろ」
「そうだった。やっぱり死んでも死にきれない」
「安心しろ、おれは犯人じゃない」
「そんなわけはない。目撃者だって、指紋だって出てるんだ、言い逃れできないぞ」
「よくわからないんだけど、その事件というのはいつどこで起きたどんな事件なんだ?」
 アルコールでぼんやりした頭から事件の話をひっぱりだして、ぼつぼつと話しはじめる。
「というわけで、被害者が殺される直前に使用していたノートパソコンにお前の指紋がついていたし、現場から逃げていくのを向かいの奥さんが見ていたんだ」
「それ、おれが近づいたこともない土地だぞ。目撃証言なんてアテにならないもので逮捕されたんじゃたまったものじゃない」
「じゃあ、アリバイでもあるっていうのか?それともノートパソコンに指紋がついていたことを説明できるのか?」
「まず、なんでおれの指紋が警察にわかるの?おれは前科者じゃないんだけど」
「前科はなくても、警察に指紋をとられたことがあるんじゃないのか?」
「あ、もしかして交通違反とかで指紋を取るの、あれ使ってんじゃないの?」
「それだな」
「まじ?それ違法なんじゃないの、交通違反で指紋押させるとか」
「まあ、ダマされちゃったのかもしれないな。本当は拒否できるんだけど、そんなこと教えてくれないもんな。強制じゃなくよろこんで協力してくれたってことになってるんだ」
「うげぇ、警察きったねえ」
「うん、そうかもしれない」
「で、ノートパソコンのどこに指紋がついてたんだよ」
「えーと、ディスプレイの左上かな」
「被害者って女性っていったっけ?」
「そうだけど」
「パソコン教室に通ってたんじゃないか?おれ一時期講師してたけど。たまに自分のパソコンもってきて見てくれっていう人いるんだ」
「なに、本当か?」
「あとはアリバイか。ほとんど家にいて出歩かないからな。でも、その日付はひっかかるな。なんだったかな。用事があったんじゃないかな。ダメだ、わからない。家に帰ってカレンダーみればわかるんだけど、警察で調べてくれよ」
「わかった。カレンダーな」
 ナイトテーブルのライトを消す。
「ふわぁあ、もういいから寝よう。明日こそ犯行を認めさせて見せる」

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(ブログ連載小説)幻のドーナツ #6

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6.奥さん本当にいたんですね
「いやー、大蔵さんのお宅にお邪魔するのははじめてです。奥さんにもとうとうお会いできるんですね」
「いや、相坊はここで帰ってくれ。駐車スペースがないんだ。この道は駐車禁止だし」
「そんなー」
 大蔵はメンドウになると思って、お前を妻に会わせたくはないとは言わなかった。
「はいってくれ、ただいまー」
 発砲音、大蔵は身をかがめる。
「おめでとう!はじめての犯人逮捕!いえーい」
 大蔵の妻が廊下の一番手前の部屋から飛び出してきて大蔵の首に抱きついた。勢いで玄関ドアに背中から激突し、妻はおでこをしたたかに打った。クラッカーの中身がごちゃごちゃと腕の当たりにたれさがっている。
「いったーい。そんなことより、いまのお気持ちは?」
 こぶしを大蔵の口元に押しつけてくる。
「複雑な心境なんだよ」
「あらま」
 妻が離れ、玄関の板の間に着地した。
「で、この方は部下?」
「いや、それが」
 右手を差し上げる。手錠がジャラジャラ。被疑者の左手がくっついてくる。
「なにこれ、なんていうプレイ?」
「これはプレイじゃないんだ」
「じゃ、そんなことはいいや。とりあえず一枚」
 大蔵と被疑者はケータイで撮影される。
「今度は手をつないで」
「わるいな、ちょっとつきあってくれ」
「はあ」
 ふたりは手をつなぐ。
「いいね。今度は顔だけ向けてお互いに見つめあって」
「こ、こう?」
「ああ、んはー。こりゃたまらんわ」
 じゃあ、今度はといって、ポーズをつけられ、向き合った状態でつないだ手を体の前にもってきて見つめあう。
「ああ、もうやっちゃってよ。ぶちゅっとやっちゃって」
「ありがとう。もうこれで十分だから」
 大蔵はケータイをパシャパシャいわせている妻の腰を引き寄せて、軽く口づける。
「ただいま」
「あら、わたしったらまだこんな玄関で。失礼しました。さ、どうぞあがってください」
 やっとスリッパがでてきた。そのまま出てきたドアをはいって姿を消してしまった。
「すまない。驚いただろ。さっきのがおれの妻なんだ」
「ま、まあ。本当にキスさせられるんじゃないかとあせったよ」
「病気なんだな」
「はあ」
「まあ、あがってくれ」
 ふたりで大蔵の妻がはいっていったドアを通る。リビングダイニングだ。奥はカウンターキッチンになっている。リビングのソファに並んですわる。
「奥さんは仕事なにしてるんだ?」
「マンガ家。それもちょっとあれな」
「あれ」
「そう、さっきみたいなあれ」
「ああ。女性向けの」
「そうだな。男が見て悪いことはないが、少ないだろうな」
「なんというか、かわいらしい奥さんだね」
「おれには彼女しかいないってくらい最高の妻だと思っているけどね」
「すごいもんだ、そこまでとは」
「マンガ家ってのは、普段ひとりでずっと描いてるもんだろ。おれが家をあけるといっても、そのほうが都合がいいっていうくらいなんだ」
「ああ、刑事の仕事は不規則なんだね」
「そう、で、ちょっと手が空いてかまってほしいときだけ近づいてくるわけ。猫みたいなものかな」
「はあ」
「それに、おれのよき理解者であり、応援団長なんだな」
 またケータイのパシャッという音が聞こえた。
「はい、準備オッケー。こっちきて」
 テーブルにはオードブルと、シャンパンが冷やしてあって、準備オッケーだった。
「すごいね」
「だって、お祝いでしょ?」
「いや、それが。まあいいや。ゆっくり話そう。アルコールは大丈夫?それじゃ、乾杯だ」
「チンチーン」
「それはやめてくれ」
「なんで?いいじゃない」
「はいはい。レマン湖とか大好きなんだよな」
「フランス語なんだからいいじゃない」
「とにかく飲もう」
 シャンパンは冷やされていてスッキリシュワシュワ、爽やかな甘みが、取調室の壁が倒れ、周囲はアルプスの高原の花畑だったときのようだ。われながらなにを言っているかわからない。
 やっと落ち着いたから、大蔵は妻に今日あったことを話した。
「お風呂は?沸いてるけど」
「今日はいいよ、こんなだし」
 右手を上げて手錠につながれている状態を見せる。
「いいじゃない、男同士なんだし。じゅるり」
 出てもいないよだれを手の甲で拭っている。手がつながっているんだからシャツが脱げないと言って、どうにか妻の欲望をとどめることができた。
「わるいけど、今日はリビングのソファで寝てくれる?」
「いいのいいの、仕事場で仕事するから。今日ははかどるわ」
 なんだかとってもいい気がしないけれど、スルーしてシャンパンのボトルが終わったのを機に寝ることにした。

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(ブログ連載小説)幻のドーナツ #5

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5.やっぱりかつ丼、これが夢だった
「さて、このままじゃ取り調べもできないし、取りあえずかつ丼食うか」
「いりませんよ。どうせ自腹なんでしょ」
 被疑者はつれない。
「いや、おれがおごる。な、かつ丼食べよう」
 大蔵にとってかつ丼は夢だったのだ。簡単に譲るわけにいかない。
「はあ、じゃあいただきます」
「よし。相坊、かつ丼ふたつ注文してくれ。あ、お前も食べる?」
「じゃあ、カレーうどんいいっすか」
「いいよ。でもシャツに汁が飛ぶぞ」
「前掛けします」
「お前そんなの用意してんの?」
カレーうどん好きなんで」
「日本人かインド人かハッキリしろよな。いや、なんでもない。じゃあ注文頼む」
 かつ丼がきて、大蔵がお金をはらった。
 手錠が大蔵と容疑者の腕をつないでいるから食べづらい。大蔵は右手で容疑者の左手に手錠をかけた。容疑者は右手が自由だ。口と手を使って割り箸をわって食べ始めた。大蔵は容疑者のとなりにすわっているけど、右手が手錠で容疑者につながっているから、動かしづらい。警部の手の動きで左手がひっぱられるにまかせてくれているけれど、じゃまだし、重い。こんなはずじゃなかったのに。
 相坊のカレーうどんの匂いが取調室に充満している。もう食べ終わって、満足顔で額の汗をハンカチで拭っている。
「相坊、給湯室行ってスプーン取ってきてくれ」
「ああ、はいはい。世話が焼けますね」
 いつもはおれがお前の世話を焼いてんだよと、大蔵は内心毒づいた。
 スプーンがきて、自由な左手でかつ丼を食べた。涙が出るほどうまかった。食後のお茶をすする。
「あっ、忘れてた。ドーナッツ。相坊、デスクから虎の子のドーナツ取ってきてくれ、食後のデザートにしよう」
「いいですね」
 取調室を出た相坊はすぐにもどってきた。
「大蔵さん、これ。やられましたよ」
 幻のドーナツの紙袋はぺちゃんこにつぶされ、上に一枚のメモ用紙がのっている。
『おいしくいただきました 刑事課一同』
「ううっ、ぐっ、ぐぅ」
 大蔵は言葉にならない原始的なうめき声を発し、絶望した。はるか昔、人類がアフリカのサバンナへ進出しなければならない状況に追い込まれたときも、かくありやという絶望だった。
「大蔵さん、泣かないでください」
「うっ、うう」
「え?おれのせい?」
 大蔵はうらめしそうに被疑者の男を睨んでいる。
「やつあたりはやめてください。大蔵さんが食べられないタイミングでしか買うことができないドーナツなんですよ。だから幻のドーナツなんです。運命だと思ってあきらめてください」
 がっくりうなだれてしまう。
「もういい、今日は帰る」
「被疑者はどうするんですか」
「なにが」
「被疑者の身柄ですよ」
「今日は留置場だよ。あたりまえだろ、逮捕したんだから」
「大蔵さんも一緒に?」
「なぜおれまで被疑者扱いする」
「でも、手錠はずれなければ一緒に留置場に泊まらないと」
 右手をあげ、手首にはめられた手錠をしげしげと見下ろす。
「うーん、うちくる?」
「えー。まずいんじゃないですか」
「じゃあ、まだ逮捕してないってことにするのは?事故で偶然手錠がはまっちゃって、しかたなしにってことでどうかな。明日になれば手錠切ってもらえるんだし」
「はあ」
 容疑者の顔をうかがう。
「逮捕してないってことになるなら、まあいいけど」
「決まりだ。じゃあ、送ってくれ」
「世話の焼ける」
 相坊に車で家まで送ってもらう。

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風邪から回復中なので、あったまりたい

今日は新しい短編小説を書きはじめて、6000文字でした。

20000文字弱の小説になる予定です。

 

事件を解決できない刑事のシリーズ第3弾なのですけれど、今回はとうとう被疑者を特定し、逮捕状まで出ました。

さらに、被疑者に手錠をかけるのですけれど、それがハプニングの始まりというストーリーです。

おもしろくなるとよいのですけれど。

 

ちなみに、今夜の夕食はポトフの予定です。

ちなんでません。すみません。

 

(ブログ連載小説)幻のドーナツ #4

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4.副署長、女性です
「大蔵さん、行ってきました」
「で、なんだって?」
「大蔵の手首切り落とせって。それでとりあえず被疑者は帰せだそうですよ」
「うそ。まじで?」
「冗談だと思いますけど」
「だよね。だよね。うん、それで?」
「それだけです」
「お前ね、首絞めるよ」
「冗談ですよ。装備課の人がきてくれることになったみたいです」
「なるほど、手錠だからな。装備課か。さすが副署長、あざやかに解決」
「大蔵さんですか」
 音もなくドアが開いていて、制服の女性が立ちはだかっている。なんだろう、警察の女性ってみんなオニでも殺しそうな人ばかりなんだろうか。教育ママ然としたメガネをかけたとがった印象の女性だ。
「はい、大蔵です」
 手を挙げようとして、手錠でつながった被疑者の手で阻止されてしまった。
 コツコツを靴を鳴らして手錠をむんずとつかみ凝視する。
「たしかにゆがんでますね」
 江戸時代に罪人を拷問にかけていた役人のような目で大蔵を見下ろす。ちがうんですと叫びだしたい気持ちをぐっとガマンする。
「貸与物をこんなふうにされると困るんですよね」
 そんなこといったって、おれのせいじゃないんだから。言い訳は喉元でとまって、国境を出られない。
 ガシャンと音をさせて工具箱をデスクに置き、中から電動ノコギリを取り出す。コードをコンセントにつなぎ電源オン。すごく凶暴な音が狭い取調室に充満する。
 やっぱり手首を切り落とす気だ。
「ちょーっと待ってください」
 電動ノコギリを振りかぶって、手首でも首でも胴でもぶった切る気満々でいる装備課の女性を被疑者と一緒になって必死に押しとどめる。ノコギリの電源が切られる。
「なんですか、わたし忙しいんですけど」
「ごめんなさい。でも、いまなにしようとしました?」
「電動ノコギリで手錠を切ろうかと」
「手錠は手首にはまっているのですけど」
「見ればわかります」
「ちょっとずれたり、切り離したときの勢いとかで手首が巻き添えになる心配があるんですけど」
「わたしの腕を信用してください」
「よく、こんなことあるんですか?」
「はじめてですよ、こんなバカなことをする人は」
「信用できるわけないじゃないですか」
「じゃあ、どうするんですか」
「もうちょっと穏当な道具がないんですかね。こう、グッと行っちゃってもスパッと行かないような」
「人が援助の手を差し伸べているのに、贅沢ですね」
「す、すみません。贅沢を言ってすみません。なにか手動の道具でお願いします」
「仕方ないですね、じゃあ、帰りにでもホームセンターで糸ノコ買いますよ」
「いまないんですか?」
「女性に手で金属を切れなんて言う人間が地球上に生息しているとは思わなかったので」

「ごめんなさい。女性に手で金属切れって言ってすみません。いえ、実際に切るのは相坊にやらせます。そこは任せてください」
「仕方ないですね」
 ふうとため息をひとつついて、工具をしまい、去ってしまった。
 大蔵は被疑者と、助かりましたねと戦友のような気分で視線を交わした。おい、それでこれどうするの?と相坊に目線を送った。知りませんよと返事が返ってきた。

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(ブログ連載小説)幻のドーナツ #3

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3.取り調べもできないんじゃ、仕方ないな
「手錠をはずしてくれ」
「え?大蔵さんカギもってないんですか?」
「自分でもってるんだっけ?」
「そうですよ」
 相坊はポケットから自分のカギをつまみ出してチャラチャラと振ってみせる。
「じゃあ、それ貸してくれ。って外れないじゃないか」
「なんでですか。外れるはずですよ」
 鍵穴に鍵ははいるのだ、すこしゆがんでしまっているけれど、むしろ鍵穴が広がっている。でも、鍵をまわそうとしてもまわらない、反対にまわそうとしても無理だ。
「ほら」
「ほらって、なんかいびつになっちゃってますね。怒られますよ」
「おれのせいじゃないだろ。ちゃんと仕事した結果がこれなんだから、怒られるってのは承服しかねる」
 大蔵は自分に手抜かりはなかったと点検した。
「むしろアルミなんかにしたのがいけないだろ。だからゆがんじゃったんだ」
「まえはちがったんですか?」
「まえは鋼鉄製のごつくて、ゾウがのっても大丈夫な筆箱くらい堅牢強固だったんだ」
「筆箱ってなんです?」
「筆箱使わなかったのか?」
「ペンケースのことですか」
「お前ね、よくないよ?なんでも横文字を使って大人を煙に巻こうとするのは」
「おれだって、大人ですよ」
「そんなことより、どうするんだこれ」
「ねえ、こっちだけでいいからはずしてくれませんか」
 被疑者がしびれをきらしてしまったようだ。気が短い被疑者だ。どれ。
「無理みたい。こっちもゆがんじゃって鍵まわらないや」
「やめてくださいよ。手錠なんていつまでもはめられていたくないんですけど」
「そう?せっかくだからはめておいたらいいじゃないですか。なかなかないですよ?」
「手錠なんて一生はめられたくなんかありませんから」
 相坊と顔を見合わせる。まあ、確かに。
「ちょっと副署長に相談してみてくれ」
「課長じゃないんですか?」
「課長はクール教の信者だからな。ロクなことにならない」
「はあ、じゃあ。その間に取り調べ進めててください」
「取り調べは手錠はずさないとできないよ」
「そうなんでしたっけ」
「手錠をはずさずに話したことは任意性がないとされて裁判で負ける。検事に殺されることになる」
「うへー。いえ、知ってましたけどね。ちょっと大蔵さんを試しただけです」
「負け惜しみはいいから、行ってこい」
 相坊が取調室をでてゆく。
「すみませんね、バタバタして」
「本当ですよ、勘弁してもらいたい」
 ご立腹の様子。もとはといえば、ドアを勢いよく開けてドアノブが直撃したり、激突してきたうえに倒れ込んだりといったことが原因で手錠がゆがんだのだから、被疑者の責任のほうが大きいはずだ。
「それで、なんで逃げたんですか。逃げ切れるわけないのに」
「警察じゃないと思ったんですよ」
「なにと勘違いしたんですか」
「借金取り」
「借金してるんですか」
「しょうがないでしょう、無職で貯金もないんだから」
生活保護は?」
「申請しても無駄とかいわれて申請させてくれないんです」
「はあ?そんなわけないでしょう。おカネがなければ生活保護の対象のはずですよ」
「あれです。水際作戦」
「水際作戦?本当に?テレビだけのことかと思ってた」
「若いんだから贅沢言わなきゃ仕事なんかいくらでもあるだろっていうんです」
「そうなの?仕事がなくて公務員人気がずっと高いって聞くけど」
「その通りです。つまり仕事につかないのは贅沢をいってるんだってことなんです」
「はあ。でも、その人にあった仕事ってあると思うけど。向かない仕事についても続かなくて元の木阿弥になりそう」
「そうなんです。刑事さんが窓口の人だったいいんですけどね。窓口の人も上司に言われて拒絶してるんでしょうけど。ひどいもんですよ、この町の行政は」
「じゃあ、弁護士と行ったら?」
「弁護士を雇う金なんかありませんよ」
「まあ、そうですよね。弁護士だってタダじゃない。じゃあ、弁護士に見える友達とか」
「そんなの通用しますか?」
「さあって、これから起訴して裁判して刑務所に行こうって人間が生活保護の心配なんてしなくていいんだった」
「行きませんよ、刑務所なんか」
「行かないって言われても、裁判所で判決もらって収監しちゃうんですけど」
「起訴するんですか」
「しますよ」
「犯人じゃないのに?冤罪ですか」
「またまた、犯人でしょ?」
「だいたいなんの容疑ですか」
「逮捕状見せましたよ?って、ちゃんと見てなかったのか」
 もう一度逮捕状を机に広げて見せる。右手が手錠で被疑者とつながっているから邪魔くさい。

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(ブログ連載小説)幻のドーナツ #2

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2.ちゃんと捜査したんですよ?書いてないけど
 被疑者のアパート。サクラさんたちはベランダ側を見張ってくれている。大蔵は相坊とともに部屋をたずねる。
 ピンポーン
 中でチャイムが鳴るのが聞こえた。被疑者は現在無職で、張込みの結果、在宅だとわかっている。物音がして、玄関に近づいてくる。玄関が、
 まだ開かない。
 のぞき窓でこちらを確認しているようだ。
「どちらさまですか」
 慎重な性格の被疑者らしい。さっさとドアを開ければいいのに。
「警察です。お話を聞かせてもらえますか」
 ドアの鍵が開く音。
 バンッ
「うぎゃっ」
「うおっ。あっ、待てっ」
 大蔵はドアのノブが腰に直撃し、板の部分で肩と顔を打たれて、アパートの廊下の手すりに寄りかかった。相坊はインターホンを押してドアからずれていたから、ドアの攻撃は受けなかったけれど、被疑者が飛び出してきて突き飛ばされ、廊下の手すりに体を打ちつけて倒れてしまった。
 これは任意同行どころではない。ヘタしたらこのまま逃走されてしまう。被疑者確保の夢が足音高く逃げてゆく。
 無線でサクラさんたちに状況を知らせ、相坊を立たせて追いかける。腰が痛くて、階段を降りるのに難渋した。道路に出てサクラさんと合流する。でも、サクラさんも米田さんも犯人を追いかけるには向かない。大蔵と相坊で確保するしかない。
「どっち行きました?」
「あっち走ってった」
 相坊とふたりで走る。大蔵は勉強が得意なのだ。運動は苦手だ。就職試験でも、警察大学校でも大いに苦労した。被疑者を追いかける相坊を大蔵が追いかける。あぶない刑事じゃないんだから、走らせないでほしい。大蔵は自分を古畑任三郎タイプの刑事だと思っているのだ。
 あ、相坊が公園にはいっていった。まずい、子供がいたら危険だ。肺をゼイゼイいわせ、血の味を感じながら、公園の入口にたどりつく。子供は、
 いなかった。
 相坊が被疑者を追い詰めている。
「警察だ。抵抗するな」
「ウソだ。ダマされるもんか」
 事情がよくわからない。大蔵たちを警察ではないと思っているらしい。なら、手帳を見せれば早いと上着の内ポケットを探り手帳を取り出す。付属の紐でグルグル巻きだからほどいてやらないといけない。
「大蔵さん!」
「え?」
 被疑者が大蔵に迫ってきていた。よける余裕はない。必死に腕をまわして取りつく。偶然足がからまって、被疑者ごと地面に倒れる。またさっきと同じ肩と腰を地面にしたたかに打ちつけた。
「痛てぇ」
「それより、逮捕逮捕」
 相坊にせかされて、逮捕状を示す。時刻を読み上げ、腰のベルトにつけていたケースから手錠を取り出す。ケースが壊れていてひっかかった。手錠もドアノブと、さっきの地面の衝突ですこしゆがんだらしい。被疑者の手首と自分の手首にかけるとき、面倒をみてやらないとはまらなかった。これだからアルミは。
「やりましたね」
「エイドリアーン」
「なんですかそれ」
「いいんだ、ほっといてくれ」
 とうとうみずからの手で被疑者を確保したというよろこびに、大蔵は浸っていた。相坊になど邪魔されたくはない。

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