九乃カナは夢をかなえたい

羊頭狗肉とはこのことだ

 わたくしの夢の話ではありません。いえ、まったく違うというのでもないのですけれど。夢のかなえ方について書いてみようかと思い、キーボードを叩きました。ペンをとるの現代的ないい方ってなんでしょうね。エディターのタブを追加しましたかな。

夢かなわず

 わたくしの夢がかなったとか、かないそうとかいうことでこのエントリーを書こうと思ったわけではありません。読む人もそんなことは期待しないでしょう。他人の夢がかなったからって、わたくしたちには関心がありませんね。自分の夢をかなえたいわけです。
 フィギュアスケートで成功したいと思っている人は、浅田真央に話を聞いても仕方ありません。その人は浅田真央みたいになりたいのであって、話を聞く相手を間違っています。浅田真央のコーチに話を聞くなりコーチしてもらえるように頼むなりすることが必要なわけです。それでこそ浅田真央みたいになれるのですよね。
 ということは、夢をかなえたかどうかではない。夢をかなえた人の話なんて聞いても仕方ないのです。成功した人が経営者向けの本を書いたりしますけれど、そんなものはゴミです。読むなら経営学の本でしょう。そういうことになりますね。

考えた

 いえ、別にわたしが夢をかなえるコーチだとか、プロだとか、そういうことではありません。大切なのは思考でしょう。夢について考え、そこそこ妥当な考えを思いつけば、それが役に立つかもしれないといいたいのです。
 思考というのは、感覚的なものです。小説をひとつ書いたらアイデアが思いつくようになるのと同じです。この場合は、小説のアイデアを思いつく感覚を体得したということになります。感覚ですから、慣れですね。普段から思考している人はなんでも考えられます。そうではない人がほとんどのようですけれど。
 わたくしは数学の人でしたから、思考マシーンといっても過言ではありません。嘘です。思考に対して合理的な言葉をあてて説明するのがうまい。そんなところでしょうか。ちょっと詐欺師みたいですけれど。
 では、本題にはいりましょう。夢のかなえ方です。

どんな夢をおもちですか

 これから夢のかなえ方について書こうと思うのですけれど、まず夢の話題からはいらなければならないでしょう。かなえる話の前にね。
 どんな夢でもかなうとしたら、どう思いますか。つまり、かならずかなうという条件が提示されたとき、なにを夢として答えますか。
 わたくしなら、自分が最高だと思える曲を作って、最高のバンドで最高のギターをプレイしたいということでしょうか。どうです?どう答えますか?
 考えにくいですかね。こうしてもいいでしょう。わたしたちが今日生まれたことにしましょう。精神は今のままです。今はやりの転生ものですね。神様がやってきて、夢を言えひとつだけかなうだろうと、ありがたいお言葉をかけてくるのです。答えひとつで、夢をかなえるのに最適な身体や頭脳や家柄やなんかが与えられ、適切な時期に夢がかなうという設定。甘やかしすぎですか?でも、さすがに正直なところが思いついたのでは?
 つぎに、では実際に今現在どんな夢をもっていますか。こう問わなければなりません。 わたくしなら、書いた小説を本にしてお金をもうけたいし、資格を活かした仕事で独立したいし、スマホアプリかウェブサービスでお金をもうけたいと答えます。全部カネですね。お金があれば小説が書けるし、事務所を開けるし、プログラミングをしていられます。夢かなわなくても同じじゃないかという気もします。
 そして、さらなる問。一番目の質問の答えは二番目と同じですか?多くの人は、自分の現状を考慮して、二番目の質問ではより現実的な回答をしているのではありませんか?わたくしのように。
 つまり、人間というのは夢にランクをつけて複数もっているものなんじゃないかと思うのです。

夢は宝くじ

 宝くじってありますね。数学をかじった人間からすると、期待値が低く確率的に損をする宝くじを買うのは、かしこいお金の使い方ではないということになります。保険にはいるのも同じことですね。
 宝くじが当たるとしたら何等を当てたいと思いますか?本気で高い当選金を手にしたければ、多くの宝くじを買わなければいけません。高い当選金は当たる確率が低いものですからね。数学です。
 夢も同じようなものです。かなえたい順位の高い、ランクの高い夢ほど実現の可能性は低く、実現したかったら努力やらなにやらが多く必要になります。また、努力したからって夢が実現する、かなう可能性はあまりあがらない。もとの確率が低いのです。
 宝くじを何万枚何十万枚も買うようなものですね。ものすごい出費になるし。当たる確率はまだ低い。数学的には金額に比例して当たる確率が高くなるわけですけれど、現実には十分な確率ではないでしょう。期待値が低いのですから。

バランスが大事

 夢のかなえ方、結論がでました。夢がかなう期待値と努力のバランスが大事なのです。期待値が低すぎれば、かないっこない夢のためになにかする気が起きないのもうなづけます。夢のランクを十分落とし期待値をあげておいて、その実現に向けて進めばよい。夢がかないそうとか、夢がかなったというときには、夢のランクをあげればよいのです。

期待値って?

 夢のランクをさげれば期待値があがるという前提で話していました。ここには価値観というか、ものごとの見方というか、高度な判断を要します。
 期待値という用語の意味がわからないと、話になりませんね。期待値というのは、得られる利益とその利益を得られる確率をかけたものの総和です。当選金と、その賞があたる確率をかけて、各賞の結果を足した値が宝くじが当たる期待値です。
 もし、全部の宝くじを買ったら、すべての賞が当たり、すべての当選金がもらえます。けれど、もらえる額は宝くじの代金よりかなーり少ないというのが、期待値が低いという意味です。みずほ銀行の利益や、税金や、宝くじ売り場の場所代や、おばちゃん代が宝くじの代金に含まれているからですね。宝くじの紙と印刷代なんて微々たるものでしょう。
 ひとつの夢の期待値とはなんでしょうか。今の説明によると、夢がかなって得られる利益と夢がかなう確率をかけた値ということになりますね。ランクをさげれば期待値があがるということは、夢がかなって得られる利益はたいしてかわらないだろうに、かなう確率は高くなるだろうという判断からきています。
 利益も、確率も、うまいこと数字にあらわせないものですから、価値観やものごとの見方によって、期待値がどう変化すると考えるかも人それぞれだろうというわけです。

それでもやっぱり

 かなえたい順位を落として、その夢を狙ったらどうかという話でした。夢の実現を狙ってする努力やなにかは、夢の大きさと可能性に対して満足できる期待値になるかもしれません。それでもかなわない可能性がかなりあるでしょう。このへんのバランスは、やっぱり期待値が低いように思います。宝くじと同じですね。
 そんな現実に気づいてしまうと、宝くじを買うのはバカらしいのと同様、夢をかなえるために努力するのはバカらしいという結論になってしまいガチです。

人ひとりの人生は長い

 宝くじを買うというのは、ここでは夢に向かって努力するというようなことです。それをしないでなにをするのでしょう。
 人生は確実に過ぎてゆくわけですけれど、それにしたって七十年や八十年の時間は長い。若い人で二十代だとして、五十年くらい生きるわけです。四十代くらいになにか小さな夢でもかなえないことには、生きてゆけないのではないか。そのあと、四十代からつぎのことを考えてもいいし、ひとつ夢がかなったと満足して生きてゆくこともできるでしょう。それなしで夢なんてバカらしいといって現実だけを見て、五十年とか生きてゆけるものでしょうか。地獄ではないかと思います。
 両親を見ていると、くだらない退屈な人生を送っているな、よく不満が爆発しないなと感心してしまいます。感覚が鈍っているのでしょう。

人生のコスト

 いま考えてみたように、長い年月を過ごすというのは、ほぼ人生がコストです。人生を費やしてなにもせずに生きてゆくのはもったいない。どうせ過ぎてしまうなら夢に向けて努力してみたらよいのではないですかね。
 家の横を流れている小川。そのまま流しておくのもオツなものかもしれませんけれど、水流を活用して水車をまわし、粉を挽いてみてはどうなんだろう。という発想です。
 夢がかなわなくて努力が無駄になるかもしれません。無駄になったっていいんじゃないですか。どうせなにもしなくても人生が無駄になるのです。
 もしかしたら小さな夢がかなうかもしれません。宝くじと同じで、小さな夢のための努力で大きな夢が大当たりする可能性も、あるといえばあります。期待するのはバカバカしいですけれど。往々にして、試しに一枚買ってみたという人が一等を当てたりするものです。
 賞をとって小説を本にしてもらい、お金をかせぎたいと思っていただけなのに、ある日ノーベル財団から電話がかかってくるようなことも、ないとも限りません。本気ではありませんけれど。

若い人へ

 特に若い人、これからの時代あなたの人生は大いに無駄になることでしょう。なにごとかを成し遂げられる可能性は、あなたが生まれた頃よりさらに低くなってほぼゼロだろうと思います。
 無駄な人生をつまらなく過ごすより、どうせ無駄な人生なのだから小さな夢でも探して努力してみたらよいと思います。
 そうしたら楽しい人生になるやもしれませぬぞ。老師様になってみました。